文化身体論 失われた日本の身体文化を
一本歯下駄で取り戻す
能楽の伝承的保存と一本歯下駄・一本下駄の機能的保存から「間」と「型」を獲得する。
西洋化によるハビトゥスを変容させ、日本人本来の身体知を現代に蘇らせる実践的理論体系。
日本文化に存在した
「型」の叡智
元来、日本の文化にはさまざまな「型」があった。日本における古武道では、ほぼすべての流派に独自の型とその組み合わせである型体系が存在し、修行者は型を通じて稽古を重ねてきた。「型」とは単なる動作の形式ではなく、その武道の核心となる技・業を伝える教範であり、伝統的な芸能や医学にも見られる叡智の表現と伝達の方法である。これは東洋に特徴的な事物へのアプローチといってもよい。
「型」は、武道では決められた一連の動作から構成され、それぞれの武道の核心となる技・業を伝える教範である。伝統的な芸能や医学にも見られる叡智の表現と伝達の方法であり、東洋に特徴的な事物へのアプローチといってもよい。
しかし、評論家であり伝統文化における技術の伝承についての研究家でもあった安田武は、日本文化のなかに存在した「間」と「型」が、日本の日常に薄れつつあることを指摘している。明治維新以降、日本は急速に西洋化を進める中で、靴・椅子・洋服など西洋の生活様式を取り入れた。その結果、畳に座る、下駄や草履を履く、着物を着るといった伝統的な生活習慣が失われ、それとともに日本人が長年培ってきた独特の身体感覚や身体技法も失われつつある。
教育哲学者の生田久美子は、伝統芸能の学習者の動きの習得度合いにおいて、一見同じような動きにおいても「形」と「型」の違いがあることを論じている。さらに生田は、「型」には「間」が存在しているとも論じ、この「型」と「間」への考察についてマルセル・モースの身体技法の中核概念である「ハビトゥス」の概念を用いて、身体運動を解剖学的、生理学的な観点を超えて、心理学的、社会学的考察の必要性があることを指摘している。
能楽を室町時代に大成させた能楽師の世阿弥や日本舞踊井上流3世の井上八千代がそうであったように、「間」と「型」がある動きには、抑制の美しさが存在し、見るものを魅了する。小さな動きの中にも奥行きのある動きがそこには存在する。現代の生活の中で薄れている「間」や「型」を身体や動きの中に組み込む、すなわち、伝統的な身体文化、身体技法を再現性あるものにすることは、人々の生活に根づいた文化として、現代の身体文化・身体技法以上の可能性を持つのではないだろうか。
「形」と「型」の本質的差異
表層的な動きの再現。「間」が存在せず、形真似でしかないハビトゥスの傾向性。西洋化による身体図式のままに再現された動作は、見た目は同じでも内実が異なる。
「間」が存在し、意味を内包した動作。オノマトペやイメージ、比喩までも含んだ一つの総合体として身体化され、無心で動くことができる状態。
身体文化論の限界
「界の不在」という問題
これまでの身体文化論研究は、数百年前の日本人の歩き方といった身体文化、ならびに身体技法の形式(形)への着目に留まっていた。定着論的に伝統的身体文化、身体技法を分析してきた身体文化論であるが、その実践においては西洋化によるハビトゥスの再生産に歯止めをかけることができないという限界が存在していた。
フランスの社会学者ピエール・ブルデューは、ハビトゥスを「知覚・評価・行動図式のシステム」であり、「環境との、構造化され構造する二重の関係」であると語った。ハビトゥスこそが実践における幹の部分であるが、身体文化論においては、実践における幹である西洋化によるハビトゥスの問題は放置され続け、西洋化された身体図式のままに、身体文化、身体技法が論じられてきた。これが身体文化論の限界であった。
日本の伝統的な身体文化、身体技法を獲得するための実践も、西洋化によるハビトゥスの再生産に歯止めをかける界(Champ)が不在であるなかの実践のために、西洋化によるハビトゥスが再生産されてしまう。これにより、日本の伝統的な身体文化、身体技法がいくら解明され、分析され、論じられようとも、その実践は西洋化によるハビトゥスを再生産させるという問題を指摘することができる。
仮想的界としての能楽
西洋化を相対化する視点
能楽という界がいかにして型による伝承を徹底しているかについて、松田は次のように論じている。「師匠の元に入門して型を学びますが、その型についての質問は一切許されない。型の意味を求めず、ひたすら与えられた型を繰り返す。そうすることによって、舞台の上で何百年前から繰り返されてきた型の意味が身体からにじみ出してくる。」能楽は、個人の主観が入り込むことを型の徹底により防ぎ、型の中に存在している言葉にできない意味を伝承している。
社会空間とは別に、価値判断を遂行する際の価値基準となり、仮想的に価値判断を委ねる界として仮想的界を設定することで、姿勢や動作の実践時に、今までは無自覚かつ無意識に西洋的価値判断がなされ、西洋化によるハビトゥスが再生産されていく場面に変化をもたらせることが可能となる。実践時において仮想的界を置くことで、能楽の世界では、果たしてこの動作は有効かどうか、この動きには能楽の構えが適用できるのではないか、という推論が生まれるようになり、西洋化によるハビトゥスの再生産に歯止めをかけることが可能となる。
仮想的な界を設定することで、西洋化によるハビトゥスの再生産に歯止めがかかり、新たな傾向性を持ったハビトゥスの獲得が可能になる。これが文化身体論の核心的提言である。
文化身体論の三本柱
身体文化を再獲得する方法論
能楽を仮想的な界として設定し、600年以上にわたって伝承されてきた身体技法を学ぶ。西洋化を相対化する視点を獲得し、価値判断の基準を組み替える。腰を入れる構えとすり足という能楽の代表的な身体技法は、日本の農業、宗教儀礼、武道などにおける身体技法を統合している。
一本歯下駄・一本下駄のような伝統的道具には、身体文化が機能的に保存されている。道具を通じて体感の変化、動きを発見していく行為に没頭することで、道具の中にある機能的保存された身体文化に沿ったハビトゥスへと変容していく。道具は師匠のような導き手となる。
「わざ言語」とは、伝統芸能や武道の世界で用いられる比喩的・感覚的な言葉である。「腰を入れる」「丹田に力を込める」といった表現は、身体感覚を言語化し、認知的な理解を促進する。オノマトペやイメージ、比喩までも含んだものを一つの総合体にしたのが「型」である。
日本と西洋の身体文化比較
日本と西洋では、身体の使い方、姿勢、動作の質において根本的な違いがある。この違いを理解することが、失われた身体文化を取り戻す第一歩となる。
| 比較項目 | 西洋の身体文化 | 日本の身体文化 |
|---|---|---|
| 重心位置 | 高い重心(胸部中心)、上半身主導の動き、「見せる」身体 | 低い重心(丹田・腰)、下半身主導の動き、「感じる」身体 |
| 歩行様式 | かかと着地、ストライド重視、上下動が大きい | 足裏全体着地、すり足・ナンバ歩き、上下動が小さい |
| 姿勢 | 胸を張る、直立不動、筋肉で支える | 肩を落とす、自然体、骨格で支える |
| 呼吸法 | 胸式呼吸、肋骨を広げる、浅く速い呼吸 | 腹式呼吸、丹田を意識、深くゆっくりした呼吸 |
| 力の出し方 | 筋力中心、直線的な力、瞬発力重視 | 重力利用、螺旋的な力、持続力重視 |
| 時間感覚 | 拍子・リズム、等間隔の時間、メトロノーム的 | 間・呼吸、伸縮する時間、自然な間合い |
| 空間認識 | 視覚中心、対象との距離、客観的空間 | 身体感覚中心、気配・雰囲気、主観的空間 |
| 身体観 | 心身二元論、身体は道具、機械的身体観 | 心身一如、身体は自己、有機的身体観 |
形から型への進化
身体知深化のプロセス
西洋化によるハビトゥスの中で「無意識」だった実践が、仮想的界と日本の伝統的道具を手がかりに、ことば、意識、イメージを駆使した「意識」による実践によって、身体文化、身体技法を再現しつつ、比喩までも含んだものをも一つの総合体にしたのが「型」である。「型」という一つの総合体にすることで、「無意識」としての実践へと再変換されることとなる。
一本歯下駄GETTAによる
機能的保存された身体文化の獲得
制御
活性
習得
形成
哲学者であり身体論者である市川浩は、精神と身体とは同じシステムの両面を成し、両義的であるため、その両義性を表すことばとして「身」を用いた。市川の「身」の捉え方は、身体と道具、文化についての関係を論じる際に重要な意味を持つ。道具が身体化されるということは、単に道具を使いこなすということではなく、道具を通じて新たな身体感覚が生まれるということである。
一本歯下駄・一本下駄GETTAは、この「道具の身体化」を促進するツールである。一本の歯という不安定な接地点が、従来の動きのパターンを破壊し、身体は強制的に「新しい動き方」を模索し始める。これは進化思考における「変異」である。そして不安定という環境に対し、身体は最適な姿勢、重心、筋活動を自己組織的に発見していく。これが「適応」である。変異と適応の往復運動によって、身体は「進化」する。
一本歯下駄を履くことで、西洋化によるハビトゥスに歯止めがかかる。不安定な一本の歯が、無自覚に行っていた動作を意識化させ、日本的な身体の使い方への推論を促す。道具の中にある機能的保存された身体文化に沿ったハビトゥスへと変容していく。
微妙な差異を思考し、意識し、微妙な差異の追求の中、道具の中に機能的保存されている身体文化を推測し、感じ取っていく。道具を、生田が論じたわざ世界における師匠のような導き手として、道具から体感の変化、動きを発見していく行為に没頭していく。
身体感覚の二重構造の働きにより、心、身体、環境、歴史、比喩表現から起こる動作といった実践に関わる全ての事柄が包括されていく中、ある時「間」に気づく。この「間」への気づきが、「無心」の領域である「型」の入り口となる。
実践で体現した「間」の動作を自らの競技に応用して落とし込んでいくことで、自らの競技における「型」、その競技のトレーニングにおける「型」をみつけていくことが可能になる。叡智を内包させながら規範を身体化したものが文化身体論の「型」である。
競技に活きる身体技法
アスリートが実践する文化身体論
日本の伝統的身体技法は、現代のスポーツにも応用できる。文化身体論の実践によって獲得した「型」は、各競技のパフォーマンス向上に直結する。
人間が最も速く反応できるのは鎖骨の動き。骨盤や膝ではなく、鎖骨を使った動きで相手より先に動く技術。井上尚弥選手のパンチは「引く結果、前が出る」という原理に基づく。前を出す意識はなく、反対側の動きで作る「見えないパンチ」が実現される。
前足のかかとに体重を乗せ、後ろ足のつま先で蹴る連動が飛距離を生む。ピッチングでも軸足のかかと荷重からステップ足のかかと着地、リリースでつま先への移行が重要。この連動感覚は日本の伝統的な身体の使い方そのものである。
下駄を履いてかかとを地面に落とす結果、膝が自然に出る。膝を出そうとせず、かかとを落とすことが先行する(0.1mmでも)。この原理がドリブルの切れを生む。酒井宏樹選手は鎖骨でディフェンス、相手の動きを先読みする技術を実践している。
下駄で後ろ向きに歩くと、前を向いて歩くときよりも姿勢が良くなる現象がある。これは骨盤が自然に立ち、体幹が活性化するため。走動作の改善に直結する。落合晃選手は3年間で自己ベストを12秒更新、800m日本新記録樹立のトレーニングに活用。
右かかと・左つま先(または左かかと・右つま先)で地面を雑巾のように絞るイメージ。この対角線の力が、骨盤の回旋と体幹の安定を同時に生み出す。合気道の崩し技、剣道の踏み込み、空手の突きなど、あらゆる武道の基本動作に共通する原理。
1日2分の継続で効果は維持される。椅子に座りながらかかと-膝運動、寝ながら骨盤上下運動、歯磨きしながら片足かかと・片足つま先。いつでもどこでも実践可能。子供への指導は「忍者ごっこ」「トカゲさん」「ブラックホール」「小指で履く」などの言葉で。
文化身体論の到達点
「間」と「型」という文化資本
西洋化によるハビトゥスの再生産を仮想的界によって歯止めをかけ、機能的保存のある道具と「ことば」を駆使することで、ハビトゥスを文化身体によるハビトゥスへと変容させることができる。このハビトゥスの変容の過程において、これまでの身体文化論においては、界の不在により存在も機能もすることができていなかった日本の伝統的な身体文化、身体技法が、初めて文化資本として資本化されるのである。
この文化資本の到達点こそが「間」と「型」であり、文化身体論の実践とは、この文化資本の到達点を目指すものだと言える。叡智を内包する規範を身体化するものが従来の「型」とするならば、叡智を内包させながら規範を身体化したものが文化身体論の「型」である。「間」や「型」を分析するのではなく、身体化させていく過程として文化身体論の存在を明らかにした。
文化が失われれば、身体も失われる。しかし身体を取り戻せば、文化も蘇る。一本歯下駄・一本下駄GETTAは、失われた日本の身体文化を現代に蘇らせる、文化的装置なのである。進化思考の観点から言えば、一本歯下駄は身体に「変異」を与え、「適応」を促す進化の触媒である。38億年の生命進化の叡智と、1000年の日本身体文化。その全てを、あなたの足元から。
文化を身体で体感する
理論を学んだら、次は実践です。
一本歯下駄GETTAを通じて、失われた日本の身体文化を、あなたの身体で取り戻しましょう。
「間」と「型」という文化資本を獲得する旅が、ここから始まります。
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